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テニスコーチは憂鬱? 全日本ベテラン連続出場を目指し、自分に甘えがちなこの性格と戦いながら、レッスンと練習に励むコーチの、食生活と遠征の日記。

ふじちゃん

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お引っ越し
10/03 22:27

血天井


関西滞在2日目。

7時に起床し朝食を済ませ、荷物の配送手続きを終えチェックアウトが10時過ぎ。 ちょっと寝不足気味・・・。

ちょうどホテルからJR三ノ宮駅までの送迎バスに空きがあり、乗り込む。
ここにはJRに加え、阪急と地下鉄の三宮駅もある。
呼称は“さんのみや”。
微妙・・・。

JRでとりあえず、京都へ。
運賃1050円、時間にして約1時間。
何度も通過はしていますが、京都の地に降り立つのは20年ぶり。 過去に修学旅行で3度冷や汗、友人?と1度。 今回で5度目。
まさかお寺を巡る目的で降りるとは・・・。
学生時代には考えられない・・・下降

関西弁はとってもいい。
車中では、3歳くらいの女の子まで関西弁である・・・。
お母さんと二人でのっているのですが、横に座ってるお母さんを追いやりたいらしく・・・
“もっとあっち行って~や~”と、流暢に話す。
かなり長い間の出来事だったけど、関西弁なので許されるにっこり


具体的な目的地はなし・・・。
お寺を周ろうと考えていましたが、せっかくなので、“江”縁(ゆかり)の地を探してみる。

実はこの時、ヤマハ時代の後輩家族も京都にいると言うことで、時間が合えばランチを一緒に・・・と連絡はしておいた。

彼らは三十三間堂~東寺へ。

僕はなんとか“縁の地”を養源院に定める。














養源院

“京都”、“江”で検索した結果見つけた、京都から比較的近い場所。三十三間堂の裏手にひっそりと建っている。

“江”の放送が無ければ一生行かなかったであろう・・・。
これも人生。


養源院

豊臣秀吉の側室淀殿が父浅井長政の追善のため文禄3年(1594)成伯法印(長政の従弟)を開山として建立した。寺号は長政の法号養源院をとったものである。もとは天台宗であったが、今は浄土真宗遣迎院派に属する。

建立後ほどなく火災で焼失したが、元和7年(1621)徳川秀忠夫人崇源院が伏見城の遺構を移して本堂を再建した。この本堂の正面と左右の廊下の天井は、慶長5年(1600)関ヶ原合戦の前哨戦で伏見城が落城した際、家康から同城の守備を命じられた鳥居元忠以下の将士が自刃した時の板間を用いたものと言われ、俗に血天井と呼んで知られている。

本堂の松の間の襖絵「松図」十二面及び杉戸絵八面(いずれも重要文化財)は俵屋宗達の筆と伝えられ、杉戸には唐獅子、白像、麒麟を描いている。

京都市


・・・とある。


徳川将軍代々の位牌を安置している由緒正しい寺院。
そして、“血天井”が配してあると言うこと・・・
は理解した。

血天井・・・??? どう云うこっちゃ?と思いながら、
本堂へ。






撮影禁止なので本堂の中の画像はありませんが・・・
まずは薄暗~い館内・・・。

500円の拝観料を受付で支払い、記念の絵葉書を貰い、中へ案内される。

4~5名の方々と指示されるがまま奥の間に通され、“足を投げ出して座ってください”と言う微妙な表現・・・
みなさん正座でしたが、足腰が痛い上体も固く(体育座りすれば後ろに倒れる)、胡坐に後ろ手で突っ張りを入れる、失礼な佇まい冷や汗

カセットテープから壁画の説明。
俵屋宗達さんにより、自刃した将士の英霊を慰めるために書かれたらしい。

テープの説明の後、担当の50歳半ばくらいのおじさんの
補足説明。 ちょっと、自慢げに話すところが妙・・・。
この後もずっと同じでちょっと上から目線な説明・・・冷や汗

こう言う所って、たまに祭壇の横に段ボール箱(今回は天然水)が置いてあったりするのですが、ちょっと興ざめする・・・。 その時代に水はね~だろ~っつう感じになる。



そして天井の説明に・・・びっくり


血天井

本堂の左右と正面の三方の廊下の天井は、伏見城落城の時、鳥居元忠以下の将士が城を死守し、最後に自刃した廊下の板の間を天井としてその霊を弔ったもので、世に血天井と称して名高い。




廊下に座り、天井を見上げる・・・

天井を細い竹の棒で指し示しながら・・・

伏見城で自刃した300名のお侍さんの介錯をした鳥居元忠が、最後に自分も自刃した・・・

“その血の跡です”・・・と。

“お顔が左側を向いています”

“足がまっすぐに伸び、反対側の足の膝が曲がり、4の字になっています”


まさにその通りに血痕が残っているのです怖~い

テープでの解説によると・・・

徳川家康が留守の間、鳥居元忠さんは囮になった形で伏見城に残り、4万の兵に対し1800人で対抗したとの事。10日間伏見城を守ったのです。
このお侍さんたちの遺体は、自刃後も手をつけられないままだったので、遺体の血や油が床板に染み付いてしまい、どんなに拭いても削っても取れず・・・ですから、お寺の天井に張って供養している、と。

“あちらのほうにはくっきりと手の跡も見えます”

と・・・本当に一人一人、くっきりと血の跡がついているのです。

ひとりで見ていたらかなり怖かったかも。
ほんとうに中はどこもずっと薄暗い状態でした。


本堂の廊下は総て、左甚五郎の造ったうぐいす張りで、
静かに歩くほど音がなる・・・
この廊下の鳴きで、忍び入ったかの大泥棒「石川五右衛門」がお縄になったそうです・・・。


江から始まり、学生時代にはありえない歴史のお勉強になりました。

それぞれのお寺に沢山の歴史が詰まってるということだな。



しかし。。。。 血天井はぞっっとします。
ひとりでは見ないようにぃ・・・






その後、精神的に追い込まれたので、目の前の三十三間堂
はパスし、街並みを見て歩く・・・。




鴨川

鵜飼なんかが行われる川だったかと。
もっと上流なのかな?

川沿いの町並みは・・・マンションなどが立ち並び、ちょっと期待外れでした。
まぁ、仕方ないのでしょうが・・・。

京都だって観光地でありながら、住宅街でもあるわけだし・・・。
古い街並みを残して欲しいのは地方の我がままなのでしょう。








しかし、ちょっと小道を入ってみるとこんな小川も。
この辺りはちょうど今がお盆らしく、地元の人達は着物姿のひとも。





ちょっと癒された。






さて、鍵が無く帰宅した昨夜。

以前、母や妹たちが留守に入れるよう隠した場所に、そのままが・・・置かれたまま!でした。

よかった、よかったにっこり
日ごろの行いが良いからだなピース


つづく・・・

次回は清水寺で疑似家族体験・・・。





遠征記 | 投稿者 ふじちゃん 13:10 | コメント(0)| トラックバック(0)
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